関連人物

伊達宗城(だてむねなり) 宇和島藩八代藩主 
1818年(文政元年)~1892年(明治25年)

広い視野を持ち、宇和島藩に最先端の科学技術や知識を導入した先覚の名君

伊達宗城

 伊達宗城は文政元年(1818)江戸の旗本・(やま)(ぐち)(なお)(かつ)の次男として生まれ、宇和島藩7代目藩主・()()(むね)(ただ)の養子となったあと、天保15年(1844)に8代藩主となった。幼いときから開明的な思想を身近に感じて育った宗城は、洋学書の翻訳などで海外の事情にも通じていたため、藩主となってからは蘭学を積極的に導入し、軍事の近代化と、宗紀が始めた殖産興業をさらに発展させた。

 宗城は福井藩主の(まつ)(だいら)(よし)(なが)、土佐藩主の山内豊信、薩摩藩主の(しま)()(なり)(あきら)たちと交流を持ち、ともに幕政改革を訴えて(ばく)(まつ)(よん)(けん)(こう)の一人に数えられた。13代将軍家定の世継ぎ問題については、(ひとつ)(ばし)(よし)(のぶ)を推すなど国事の(しゅう)(せん)に奔走。これに対し、()()(たい)(ろう)()(ざま)(だい)(みょう)の越権だとして()(がん)(いん)(きょ)を示唆したため、宗城は宗徳に藩主を譲り、隠居した。

 幕府の権威が低下するのにともなって(こう)()(がっ)(たい)(ろん)が沸き起こってきたとき、朝廷は有力諸侯に勅命として(じょう)(らく)を求め、宗城は(とく)(がわ)(よし)(のぶ)(まつ)(だいら)(かた)(もり)(しま)()(ひさ)(みつ)(まつ)(だいら)(よし)(なが)(やま)(うち)(とよ)(のぶ)とともに参与となった。

 明治政府では(みん)()(きょう)(けん)(おお)(くら)(きょう)となって、イギリスから鉄道敷設のための(しゃく)(かん)に成功。清国への(きん)()(ぜん)(けん)(たい)使()に任ぜられ、(にっ)(しん)(しゅう)(こう)(じょう)()の調印もしている。


児島惟謙(こじまこれかた) 大審院長 
1837年(天保8年)~1908年(明治41年)

大津事件で司法権の独立を守り、「護法の神」といわれる

児島惟謙

 児島惟謙は、天保8年(1837)、宇和島藩の下級武士・(かね)()(これ)(あきら)の次男として生まれた。勤王倒幕の武士たちと交流を深めて脱藩。()(しん)(せん)(そう)に倒幕軍として従軍し、属していた佐賀の(くす)()(ひで)()が品川県知事になると、惟謙は同県小参事となった。

 明治4年(1871)惟謙は司法省に入り、以後裁判官の道を歩むことになった。権力側に立たない公平な判断を下す裁判官として本領を発揮したのは、山形県で起きた「鶴ヶ岡事件」。元士族による封建的暴政に対し、人権尊重の立場に立った判決を下したことにより名声を得、名古屋裁判長、大阪控訴院長などを歴任して、明治24年(1891)に(だい)(しん)(いん)(ちょう)(いまの最高裁判所長官)となった。

 同年、日本中を震え上がらせた事件が起きた。ロシアの皇太子が世界歴訪のあと日本に立ち寄り、各地を遊覧していたところ、警護にあたっていた巡査・()()(さん)(ぞう)が斬りつけ、傷を負わせたという「大津事件」である。明治天皇はただちに皇太子を見舞い、政府はロシアへの配慮から津田を死刑にするよう求めたが、惟謙は法解釈が間違っているとして(まつ)(かた)(まさ)(よし)首相と大激論を戦わし、結果、無期懲役の判決を下して司法権の独立を守り抜いたことから「護法の神」といわれた。


穂積陳重(ほづみのぶしげ) 学者 
1856年(安政3年)~1926年(大正15年)

西欧に学び、日本の法律学を築いた「法学の祖」

穂積陳重

 穂積陳重は安政3年(1856)、宇和島の国学者・づみしげの次男として生まれた。藩校のめいりんかんで学んだ陳重は、幼君むねのぶの相手役を命ぜられるほど優秀で、明治3年(1870)にはこうしんせいに抜擢されて上京。だいがくなんこう(東京大学の前身)や開成学校で学んだ。

 同9年(1876)、法学を修めた陳重は文部省から命じられ、英国に留学。陳重はミドル・テンプル(法学大学)での試験でトップとなり、年に一人だけ選ばれる「一等学士」のスカラシップ(奨学金)を受けるなど海外でも成績は抜群。5年の留学期間に刑法、訴訟法などを修了し、希望してドイツの法律も学んで帰国した。

 明治14年(1881)、陳重は東京大学法学部の講師となり、学者としてのスタートを切った。33歳でわが国最初の法学博士となり、東大法学部の基礎を確立し、日本の法律学は彼の門下生たちが築き上げたことから「法学の祖」とたたえられ、特に民法の最高権威として「民法の父」ともいわれた。

 陳重は生涯を学問研究に捧げたが、それだけにとどまらず、明治23年(1890)貴族院議員にちょくせんされ、大学を退職後、男爵をじゅしゃくし、第10代帝国学士院長、第14すうみついん議長も務めている。


大和田建樹(おおわだたてき) 文学者 
1857年(安政4年)~1910年(明治43年)

有名な「鉄道唱歌」の作詞者は、速筆多作の超人的作家

大和田建樹

 大和田建樹は、安政4年(1857)宇和島藩主・(おお)()()(すい)(うん)の長男として生まれ、幼い頃から秀才で知られた。上京後は苦学しながらさまざまな知識を培い、明治19年(1886)高等師範学校の教授になった。

 このころ文芸雑誌が盛んに創刊され、作家たちが台頭し始めていたため、建樹は教師を続けるか文筆で立つか迷っていたが、同郷の()(づみ)(のぶ)(しげ)から励まされて文壇に踏み出し、やがて売れっ子作家になった。

 建樹が円熟期を迎えていた明治31年(1898)、貧乏書生時代に仕事をくれた男が作詞を頼みにきた。この当時、(げっ)(きん)に合わせて可憐な娘が歌を歌い、そのあと巧みな(こう)(じょう)で群衆に歌本を売る商売があり、それに目を付けた男が鉄道の旅をテーマにした唱歌を思いついたのだった。旅行好きの建樹は東京から九州まで一巡し、歌に読みこむ地理・歴史・名所旧跡・風俗・物産などを取材して「鉄道唱歌」の歌稿を書き上げた。鉄道の旅の楽しさを感じさせる七五調の歌は民衆の心をつかんで大ベストセラーになり、大正初期までに2000万部を売った。

 彼の名は、とかく「鉄道唱歌」の作詞者としてしか上がってこないが、建樹の才能はすさまじいばかりに花開き、国文学、和歌、詩作、謡曲、教育の各部門に驚嘆すべき数の著作を残した。