宇和島の歩み

南海に伊達あり、日本に宇和島あり

 

 

慶長十九年十二月、独眼竜伊達政宗の長子秀宗が、大坂冬の陣参戦の功により、徳川将軍家から南伊予の幕府直轄領――宇和(ごおり)十万石を与えられた。伊達秀宗は翌る慶長二十年三月、(いた)(じま)丸串(まるくし)城に入城。西国の伊達、南海の伊達が始まる。

 

以来、伊達家は九代、二百五十六年にわたってこの地を治める。板嶋を宇和島と名を改めた初代藩主伊達秀宗の藩経営は、前途多難であった。

 

宇和島藩は伊達政宗に毎年、三万石を分知しなければならず、これは家臣の重い負担となった。家中に、政宗派の家老山家(やんべ)(せい)兵衛(べえ)を排斥する気運が高まり、秀宗は清兵衛を上意討ちした。政宗は激怒し、秀宗は勘当され、あわや宇和島藩取り潰しか、という騒動となる。

 

その後、政宗・秀宗父子は和解するが、仙台藩への三万石分知は政宗の死の年まで続いた。

 

秀宗はその晩年、五男(むね)(ずみ)に三万石を分知し、吉田藩伊達家が始まる。宇和島伊達、吉田伊達の両藩が明治四年の廃藩置県まで並び立ち、宇和島は今日まで四百年、十万石の城下町・南伊予の雄都として、吉田は三万石の陣屋町・柑橘の町として繁栄する。

 

 

 

幕末、宇和島藩は薩摩・長州・土佐・肥前の四藩とともに日本を明治新国家へと導いた。

 

そのエネルギーの基盤をつくったのが、七代藩主伊達(むね)(ただ)、名君春山公である。

 

(むね)(ただ)は徹底した倹約と殖産振興、債務整理の断行によって六万両の蓄財に成功し、八代藩主伊達(むね)(なり)を国事斡旋の表舞台に送り出した。

 

伊達(むね)(なり)は、幕府旗本山口家に生まれ、宇和島藩中興の祖といわれる五代村候(むらとき)の曾孫にあたる。江戸生まれ江戸育ちの(むね)(なり)は、(むね)(ただ)に伴われて小石川の水戸藩邸をしばしば訪ねるうち、烈公徳川斉昭に傾倒する。

 

徳川斉昭の国防思想に影響を受けた宗城は、宇和島藩の軍事近代化を推し進める。蘭学者高野長英を庇護したのは、その一例である。

 

幕府お尋ね者・脱獄逃亡犯高野長英をひそかに宇和島に招き、兵学書の翻訳、優秀な藩士への蘭学教授、砲台の設計、軍艦建造の研究をさせた。

 

また、長州の無名村医村田亮庵を召し抱え、軍艦雛形の建造、砲台築造、軍制改革、蘭学教授などにあたらせた。亮庵改め村田蔵六、のちの大村益次郎は、(むね)(なり)によって医者から日本陸軍の祖といわれる軍政家への道を開かれる。

 

蘭癖大名(むね)(なり)は、西洋式蒸気船の自力建造を思い立ち、市井の職人嘉蔵を登用し、五年後、純国産第一号の蒸気船を完成させた。

 

また、シーボルトの娘楠本イネを伊達家の医師に迎え、城下に医院を開業させた。さらに、イネの娘タダを夫人猶姫(なおひめ)の小姓女中とし、高子と名を改めさせた。幕末の美少女高子は、近年、銀河鉄道999のメーテルのモデルとして知られる。

 

このような、身分や経歴、性差にこだわらない伊達(むね)(なり)の大胆な人材登用は、幕末四賢侯の中でも大いに異彩を放っている。

 

 

 

安政五年十一月、一橋派大名の(むね)(なり)は、南紀派の大老井伊直弼によって依願隠居を余儀なくされた。(むね)(ただ)の子(むね)()が九代藩主となり、宇和島藩は激動の時代を(むね)(ただ)(むね)(なり)(むね)()の三世代体制で乗り越えることになる。

 

隠居後も、(むね)(なり)は勅命によって何度も京都に上り、国事に奔走した。

 

慶応二年夏、英国公使ハリー・パークス一行が乗る英国東洋艦隊が宇和島を訪問した。英国艦隊を受け入れたのは、薩摩藩と宇和島藩だけである。伊達家と宇和島の住民は、初めて見る外国人を大歓迎した。

 

その半年後、軍艦で宇和島を訪問した英国書記官アーネスト・サトウは、宗城を「四国の小領地にはもったいないほど有能な、大名の中でも一番の知恵者」と評している。

 

「ふぉん・しいほるとの娘」、「長英逃亡」、「海の鼠」、「研がれた角」、「闇にひらめく」など、宇和島関連の小説を数多く書いた吉村昭は、

 

「宇和島藩を無視して幕末は語れず、宇和島藩なくして明治維新があのような形で成らなかったことは疑いの余地がない」

 

と述べている。

 

 

 

宇和島藩は、幕長戦争では、派兵すれども参戦せず、戊辰戦争では避戦中立を貫いた。血で血を洗う藩内抗争もなく、維新殉難者を一人も出していない宇和島藩は、まぎれもない幕末の雄藩でありながら、平和に徹したという点できわめて異色である。

 

明治四年四月、伊達(むね)(なり)は全権大使として清国に渡り、日清通商条規の締結にあたるが、軍事同盟的な内容を諸外国に非難され、九月、隅田川を望む今戸屋敷に隠棲した。

 

一将功成りて万骨枯る……、政府出仕の旧宇和島藩士もこぞって帰国し、宇和島は明治政府の藩閥から一掃された。

 

とはいえ、明治の政界、法曹界、言論界、実業界、文学界で活躍した旧宇和島藩士は多士済々である。

 

下級藩士の家に生まれた児島(これ)(かた)と土居通夫は竹馬の友で、尊皇討幕の志士として活動した。

 

明治二十四年、ときの大審院長児島惟謙は、大津事件において、適正な判決を下すよう裁判官らを督励し、司法権の独立を守った。これによって「護法の神」と讃えられる。児島は関西大学の前身である「関西法律学校」の創立にも関わった。

 

土居通夫は関西財界に重きをなし、明治二十八年、第七代大阪商業会議所会頭に就任、その死まで二十二年間在職した。土居は盟友五代友厚の三女芳子を養女にし、伊達宗徳第五子剛吉郎を娘婿にした。大阪新世界ルナパークの開発に尽力し、通天閣は通夫の一字を取ったという。

 

末広鉄腸は、東京曙新聞、朝野新聞で自由民権を訴え、時局を痛論した。小説家としても活躍し、「二十三年未来記」は空前のベストセラーとなり、「雪中梅」は、明治政治小説の代表作である。

 

「民法の祖」とよばれる穂積(のぶ)(しげ)は、イギリスとドイツに留学し、帰国後は文部省に入省、伊達宗城の勧めで渋沢栄一の長女歌子を妻に迎えた。日本で最初の法学博士となり、中央大学の前身「()()(リス)法律学校」を創立した。市民有志による銅像建立計画を聞いた穂積は、「銅像となって仰がるるより万人の渡らるる橋となりて踏まれたし」と辞退、穂積橋は今も人々に踏まれ続けている。

 

大和田建樹(たけき)は、十四歳にして藩主伊達(むね)()に「孝経」を進講する神童で、国文学研究、謡曲研究のほか、随筆・紀行文・詩歌に膨大な作品を残した。また、唱歌に「故郷の空」「青葉の笛」「あはれの少女(をとめ)」「鉄道唱歌」などの名作がある。

 

二十七歳という若すぎる死を、夏目漱石、正岡子規、島崎藤村、田山花袋らに惜しまれた中野逍遥は、明治の天才漢詩人としてその名を今に残している。

 

綺羅星の如き先哲偉人を生んだ宇和島を、多くの人が訪ねた。

 

文豪徳富蘆花は、明治教養小説の傑作『思出の記』上巻の末尾にこう書いている。

 

「夕風そよぐ甲板に立って、あとになりゆく宇和島を眺めると、銀河につづく墨絵の陸に燈の影をちらちらと――夢のように美しい所であった」

 

 

 

太平洋戦争後も、獅子文六、丸谷才一、松本清張など、名だたる作家が宇和島を訪れ、宇和島ゆかりの作品を書いた。

 

昭和三十年、宇和島を訪ねたドナルド・キーンは

 

「宇和島は世界有数の美しい町だと思う。四方に山があって、オーストリアのインスブルックを思わせる。が、段々畑になっている宇和島の山の方が綺麗である。そして海も見える。港はフランス南部のサン・ジアンド・ルースに劣らないで絵のように美しい」

 

と、讃えている。

 

 

 

宇和島を訪ねること六十回、吉村昭の宇和島賛美は枚挙にいとまがない。

 

「四国の宇和島市は、何度尋ねても飽きない素晴らしい町だ。町並みが旧城下町らしい落ち着いたたたずまいを見せているし、人情がいい。それに加えて、食べ物がうまい」

 

 

 

NHK大河ドラマ「花神」の原作である長編小説「花神」、短編小説「伊達の黒船」など、宇和島ゆかりの小説を書いた司馬遼太郎は、宇和島を十数回訪ね、「日本で一番好きな町は長崎と宇和島」と語った。

 

 

 

……かつて南海に伊達があり、今、日本に宇和島がある。